何と言ったか/なぜそう言ったか

あとで気付いたことだが、これは孔子の名言とされる以下の言葉とも共通点がありそうな気がする。
「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」
その背景にあるのは、常に目的を考える習慣があるかどうか・・・かもしれない。

pensamient0 のアバターサトシの日記

誰かに何か言われたとして、「相手が何と言ったか」よりも「相手がなぜそう言ったか」が重要なことが多い。形式を重んじる人は「相手が何と言ったか」に忠実に従おうとする傾向があるが、相手の意図を汲んで別の方法で(よりよい)解決策を提示して悪いはずがない。

これは形式主義と実質主義の差だ。

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相手を意のままに動かす方法

  • 安倍首相の姿がトランプ大統領と重なって見える。その政権の支持層が同じように見えてしまう。それはさておき・・・。
  • 安倍政権は、人事権を濫用して官僚を意のままに動かす術を知ってしまったようだ。森友学園の問題も加計学園の問題も、問題の本質は「官僚に対する人事権」を官邸が握っていることにあるのではないか。
  • 自分の命運を握っている人がいれば、その人に対して媚びを売りたくなるのが人間の性だ。これは忖度の一種だ。
  • 「私は何も指示をしていない」という説明は、シナリオ通りの正当化だろう。おそらく、白と黒の境目が「指示の有無」であると認識し、指示をしなくても相手が意のままに動いてくれる仕組みを考えた結果なのだろう。
  • 「人事権」を押さえておくことは、禁断の果実かもしれない。今の安倍政権にとって、首相官邸の意向を忖度して勝手に動いてくれる官僚たちは、かわいい存在に違いない。もちろん、表面上は批判的なコメントを発しているが、心に響くコメントはなかったので、本心ではかばっているようにしか見えない。
  • こんなことをやっていては、優秀な官僚が育つはずがない。政治家のレベルも低いままだ。批判勢力を攻撃して排除し、イエスマンに囲まれて満足しているようでは、政治家としての資質が向上するはずがない。哀れな二世政治家だ。
  • 同じことが自由民主党の中でも起こっているようだ。主要派閥が揃って安倍総裁を支持する意向を表明していることは、異様な光景である。総裁候補に立候補して敗れたら、その後は人事で冷遇される(つまり「干される」)ことが分かっているからだろう。
  • 同じ構図にあるのが、官僚とシンクタンクとの関係だ。官僚の意向を忖度して、官僚の期待する結果を出す術を熟知しているのが「有能なシンクタンク」として重宝されているようだ。過去の行政判断の問題点を指摘し、批判的な意見を述べるところは排除される傾向がある。
  • その排除の手段として機能しているのが「総合評価方式」の入札制度である。金額だけの入札ではなく、技術力と併せて総合的な評価を行う・・・というのは一理ある制度であるが、その評価は発注者たる官僚が行っている訳であり、官僚の意向に沿った提案ができるかどうかが「技術力」の評価として重要なポイントになっている。
  • 東京医科大学の入学試験でも、恣意的な点数操作が行われていたようだが、総合評価方式の入札における「技術点」も、点数の内訳は公表されず、恣意的な操作が行われている可能性が否定できない。いくつかの具体的なケースで考えた場合は、恣意的な操作が行われたことが「ほぼ確実」ですらある。
  • それにも関わらず、そのような総合評価方式の入札で「恣意的な操作」の結果として破れた側が異議を申し立てないのは、次回以降の入札への悪影響が懸念されるからだ。一度でもそのような行動に出れば、その省庁の仕事は二度とできなくなるかもしれない・・・というプレッシャーがある。
  • その結果として、官僚の顔色をうかがう「コンサル」ばかりが増えてしまい、日本には真のシンクタンクが育っていないのではないか。少なくとも,シンクタンクが育たないような構造になっている。
  • 「相手を意のままに動かす方法」を知ってしまったことが、不幸の始まりかもしれない。

常に目的を考えよう

何をするときも目的を考えて行動しよう。・・・っていうか、当たり前のことを言っているだけだが。
相手の発言の根拠が理解できないとき「なぜ?」と尋ねるのは当たり前のことだと思って、これまで数十年間生きてきた。しかし、

  • 根拠が不明確なまま物事を断定的に述べる人がいる
  • 「なぜ?」という言葉を決して使わない人がいる

という事実があることもだんだん分かってきた。このような人は、子供の頃からの習慣として「常に目的を考える」ということが身についていないのだろうと想像される。そうとしか思えない・・・と表現するのが正しいかもしれない。

このような人たちに共通する特徴の一つが、「しばしば怒る」ということだ。正義感を背景に怒っているのではなく、他人とのやりとりの中で自分の主張が受け入れられないことに憤慨して相手を罵る・・・というのが典型的なパターンである。このような人は、自分の身を守るために相手を威嚇しているのだと想像される。

仕事をする場面では、相手の立場との関係もあって、問題がさらに複雑化することがある。上記のような人が仕事上の「顧客」として自分に向き合うとしたら、逃げ出したくなるほどの苦痛だ。そのような仕事は避ければ良いのだが、「業務内容」ではなく「相手方の担当者」で仕事を選ぶのは容易でなく、実際にそのような判断をしたケースはほとんどない。

英語には「ディベート」という言葉がある。いろいろな考え方があるテーマに関して討論することを意味しているが、自分と異なった考え方の存在を端から否定していては、ディベートが成り立つはずがない。原発反対と原発賛成の議論が毎回かみ合わないのも同じ構図に思える。

常に目的を考える習慣がある人同士ならば、どのようなテーマでもディベートが成り立つ気がする。「最初に結論ありき」で判断根拠を説明できないような人が相手だと、いつまで話し合っても議論がかみ合わないだろう。

 

 

何と言ったか/なぜそう言ったか

誰かに何か言われたとして、「相手が何と言ったか」よりも「相手がなぜそう言ったか」が重要なことが多い。形式を重んじる人は「相手が何と言ったか」に忠実に従おうとする傾向があるが、相手の意図を汲んで別の方法で(よりよい)解決策を提示して悪いはずがない。

これは形式主義と実質主義の差だ。

自分に自信がない人の多くに共通する行動パターン

  • 不平不満が多い
  • しばしば怒る
  • しばしば話が食い違う
  • 質問されると考え込むことが多い
  • 自慢話が多い
  • 自分の失敗談は語らない
  • 感情をむき出しにして相手を威嚇することがある
  • 「私は〇〇と知り合いだ」とことさら自慢する
  • 「できない理由」と「やらなかった理由」を真顔で説明する

複数の意味で解釈される可能性がある表現は避けよう

日本と北朝鮮は政府間交渉の再開に向けた予備協議を開き(H24.8)、局長級による政府間交渉が来月(H24.9)にも開催されることになったそうだ。どんな議題で交渉を再開するかが焦点だったが、「双方が関心を有する事項を議題に幅広く協議する」ということで合意したらしい。しかし、拉致問題が議題として取り上げられるかどうかは、合意事項の「解釈」に依存しているとされている。

  • このような重要な問題でも「解釈の違い」が存在し得ることを関係者が直ちに認めるようでは、合意した意義がどの程度のものか疑問を感じる。
  • このような表現では、以下のどちらを意味しているのか区別ができないからである。
  1. 双方が共に関心を有する事項を議題に幅広く協議する。
  2. 双方がそれぞれ関心を有する事項を議題に幅広く協議する。
  • 後者の意味なら拉致問題が議題になるのは確定的だが、北朝鮮が前者の意味で合意したと主張すれば、拉致問題を議題とすることを拒否できることになる。このような国家同士の合意事項が「同床異夢」では困る。
  • 複数の意味で解釈される可能性があることを暗黙の了解として、意図的にそのような表現で合意したのであれば、それを「交渉術の一つ」と表現することも可能だが、「問題の先送り」と表現するほうが普通だろう。
  • 政治の世界の駆け引きはともかくとして、例えば私が携わっている調査研究業務の成果物としてこんな玉虫色の表現が使われるようでは困る。ものごとを論理的に考える習慣があれば、こんな表現は不適当だと気がつくはずなのだが、現実はそうでもないのが悲しい。

責任ある立場の人が思いつきレベルで語るのはどうかと・・・

日本が原発ゼロを目指すことの是非について、自由民主党の石破茂前政調会長がテレビの討論番組の中ででこんな発言をしていた(細部まで正確な表現ではないかもしれないが)。

<ここから>
原発ゼロなんてできるはずがありません。だって、日本は電気自動車の普及も目指すわけでしょ。電気自動車の充電には夜間の電力を使うんですよ。その夜間にずっと発電できるのは原子力発電しかないわけで、それをゼロにできるわけないでしょ。

<ここまで>

  • 石破茂氏は立派な政治家だと思うが、このような発言を聞くと、エネルギー問題などは明らかに不得意分野だと思われる。こんないい加減な論理でエネルギー政策の方向性を決められたら、たまったものではない。
  • 原子力発電はベース電力をまかなうために使われてきたため、夜間では原子力発電への依存が高かったのは確かである。しかし、原子力発電がゼロになったとしても、夜間に電力が確保しにくくなるという話ではなく、電源構成を変えれば良いだけの話だ。
  • つまり、これまで原子力発電がベース電力をまかなうために使われてきた理由を正しく理解してから論ずるべきだっただろう。「原子力発電以外ではできないから」と曲解して論ずるのは如何なものかと思う。
  • その解釈が正しいかどうかは別として、原発ゼロの是非を論ずる根拠として「電気自動車の普及の必要性」を取り上げるとは、ある意味では「斬新な発想」なのかもしれない。しかし、国政の方向性を判断するような責任ある立場であれば、思いつきレベルとも思われる発言は慎んだほうが良いのでは・・・と言いたくもなる。
  • ちなみに、私自身は原発ゼロが望ましいのかどうか、確信には至っていない。結果がどうであれ、確実な根拠に基づいて判断すべきで、まだ自信を持って意見を述べるには至っていない。自信がないことについては、断定的な意見を述べないほうが良いとも考えている。

「できない理由」と「やらなかった理由」

「できない理由」を並べたてて仕事を逃れようとしたり、「やらなかった理由」を並べ立てて責任を逃れようとする人は多い。できない理由を見つける努力をする暇があったら、どうすれば解決できるか考える努力をすべきだ・・・と私は常に考えている。しかし、自分の思いどおりに周囲の人が動かないのは、昔も今もあまり変わらない。

  • 最近、再生可能エネルギーの固定価格買取制度に興味を持って、その活用ができないか少し考えてみた。仕事として活用するのはハードルが高そうだが、自分の住む家に太陽光発電を導入するのは現実に対応可能なものと思われた。
  • 問題は、私の住んでいるのがマンションであり、自分だけの判断で決めることができないことである。技術的にも、マンションに特有の問題があることは分かっていたが、そこは自分でも下調べをして、経済的にもペイするだろうとの見通しを持つことができた。
  • そこで、マンションの管理組合で導入の判断をしてもらうため、私が下調べをした結果を添付した上で理事会に検討を依頼する文書を提出した(H24.8.12)。その文書の中では、「必要なら私が情報収集を手伝っても構わない」旨も書き加えた。
  • 提出から1ヶ月あまり経過した9/14に理事会から回答があって、下記のようなことが書かれていて「時期尚早」だと結論づけていた。
  1. 屋上へ太陽光パネルを設置すると、屋上防水に関する売り主のアフターサービス(保証期間10年)の対象から除外されてしまいます。
  2. 太陽光パネルの設置について見積書は取得していませんが、高額になることが予想されます。
  3. 設置後もメンテナンスの必要性、中長期的にはパネルの交換等、維持管理費用が生じることが考えられます。
  4. 国の助成金制度の永続性や買取価格の単価が流動的なこと等、現段階では不透明な部分が多く、長期修繕計画にも大きく影響することが考えられます。
  • 太陽光発電システムをどんな規模で導入することが考えられるか・・・という最も基本的なことすら検討された形跡がなく、それで「結論」を出してしまうことが、私には信じられないことだ。
  • 防水工事は普通に行われることなので、それをセットにして施工業者から見積もりを取れば良いだけの話ではないのか。「売り主の保証期間が残っている」ことが「できない理由」になるとは・・・。
  • 「高額になる」とか「維持管理費用が生じる」とか、具体的なデータも示さずに想像に基づいて漠然と述べているだけで、何の説得力もない。
  • 「国の助成金制度の永続性」とか「買取価格の単価が流動的」だとか書かれていたが、まったく意味を理解していないことが明らかだ。「固定価格買取制度」の「固定」の意味をどう解釈したのか聞いてみたい。国の助成金制度については、導入した者に対していつどのように助成すると思っているのだろうか。謎だらけの回答だ。

この回答では「やらない」という表現は使わず、「現段階では」とか「時期尚早」という表現を使っており、判断を先送りしたような形になっている。しかし、いつまで何を待つのか具体的な説明はなく、本音としては「自分たち理事の任期が切れれば話は終わり」とたかをくくっているのだろう。
「できない理由」を並べ立てる人の説明は、総じて抽象的で根拠が曖昧だ。そんな人を論破するのは簡単だが、論破してものごとが変わるかどうかは別問題なので、頭の痛い日々が続きそうだ。

データの裏にある意味を考えて論じよう

  • 環境省は「再生可能エネルギー4分野を大きく伸ばすための戦略」を取りまとめた。その中で、「2030年時点で原発ゼロ」を選択した場合の対応として、総発電量の約10%を再生可能エネルギー4分野でまかなうため、潜在力が最も高い「洋上風力発電」を2030年に原発約8基分にあたる803万kWに伸ばす目標などを設定したとされている。
  • 原子力発電所の出力は1基で約100万kWなので、それで803万kWを割って「原発約8機分」と解釈したと想像される(環境省がそのとおり発表したのか、マスコミがそう解釈を加えて発表したのか確認していないが)。
  • このような「解説」を読むと、原子力発電所8基を洋上風力発電で代替できるように解釈したくなるが、「出力」と「発電量」が比例しないため、その解釈はもちろん正しくない。具体的には、風力発電と原子力発電では設備利用率に大きな差があることが決定的に重要な問題である。
  • 原子力発電は定期点検などを除けばフル稼働が可能で、実際の設備利用率も80%程度らしい。しかし、風力発電は「風が吹かないと発電しない」ことが決定的に深刻な問題で、設備利用率は20%程度とされている(洋上風力発電に限っても大差ないと推定される)。
  • 要するに、「出力」と「発電量」では数倍の差が生じるため、両者の差を無視して一緒くたに論じるべきではない。したがって、このような解説は誤解を与えやすく、不適当なものだろう(設備利用率の差について、意図的に言及しなかったのか、本当に分かっていなかったのか不明だが)。
  • とはいえ、洋上風力発電などの再生可能エネルギーの価値を否定するつもりは毛頭ないので、「エネルギー政策はこうあるべき」という話と「データをこう解釈すべき」という話は区別して考えたい。
  • 個人的には再生可能エネルギーに大きな期待を寄せているが、非科学的な解釈に基づいてバラ色の将来像を描くことも戒めるべきだと考えている。

環境基準てこれでいいの?

このところ、中国では微小粒子状物質(PM2.5)の濃度が低下してきたようだ。そういう話を聞いた(例えば下記のとおり)。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180103/k10011278201000.html

その影響もあると思うが、日本でもPM2.5が高濃度になることは少なくなったようで、大きな「社会問題」にはならなくなった。こうなると、日本ではPM2.5の環境基準の見直しが検討されるかもしれない。それが「社会問題」であり続けないと、自分の食い扶持が減ってしまうと考える人たちもいるので。

環境基準とは、人の健康の保護などを目的として、それを維持するために望ましい基準として定めることとされている(環境基本法第16条第1項による)。しかし現実を見ると、環境基準は「守れるか否か」が判断基準の一つに加わっていることが否定できない。

そのような現実は、一般に公表されている資料には決して現れてこない。